TechNote

事務屋のおぼえがき

学習コストという言葉

何かに向かって走り出したいけど、何に向かって走り出すかに慎重になっている自分がいる。

 
例えば……
 
  • vimをそろそろ使ってみようかなー
  • そろそろ言語増やしたい。rubyとかどうだろう。
  • perlはなんか多くのハッカーが使ってるみたいだから、今更と言われてもいいから学んでみたい。
  • javaオブジェクト指向をちゃんと叩き込みたい。
 
などなど。
 
ただ頭をかすめるのは「学習コスト」という言葉。
 
一般的には学習コストが高ければ高いほど、その技術は廃れにくく、また参入障壁が高いために他者から抜きん出るには有効な技術であるはずである。
 
ただ、その一方で、学習コストの高いものを習得するということは、その分覚えないといけないことも多く、一時的に別の何かを犠牲にする(忘れ去る)ということでもある。
 
この「何かを犠牲にする」というのが怖くて、なかなか走り出せないときがある。
 
 
一流と言われるスポーツ選手には、途中でフォームを改善し、一時的に成績が落ちてでも、結果的には改善後フォームで改善前以上の成果を出したという人が多くいる。
 

成長したい人は誰もがこの「何かを犠牲にする」という恐怖に打ち勝っている、か、その恐怖を上回るほど修得することのほうが楽しい、かのどちらかだろう。
 

だとすると、自分は上記のことを「何かを犠牲にする」という恐怖に打ち勝たなければいけないほど必要に迫られているわけではない、また「恐怖を上回るほど楽しいと」は思っていないということだろう。

 

何かに踊らされているにしろ、やりたいことが何もないのより、ありすぎて迷ってるのは幸せな状態なのかもしれない。